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『薬丸兼義』薩摩の猛者を育てた激剣

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薬丸自顕流鹿児島道場稽古風景

『薬丸兼義』薩摩の猛者を育てた剣

【勤皇】(公武合体)

示現流から袂を分かった「薬丸自顕流」の開祖。

薩摩藩 1806~1878年 享年72歳 病死

 

維新で活躍する下級武士に剣術を指南

薩摩の剣と言えば示現流に代表されるが、

幕末・維新で薩摩の志士たちが学んだ剣術は藩ご流儀の示現流ではなく

薬丸自顕流だ。

示現流からの独立に対しては藩から厳しい処分が課せられ一族郎党すべてが藩職を失うことになった。

しかし『薬丸兼義』は自らの流派「薬丸自顕流」をその実力で広めることになる。

 

維新のヒーロー達がこそって学んだ「薬丸自顕流」

『薬丸兼義』の弟子たちはそうそうたる顔ぶれだ。

◆西郷隆盛

◆大久保利通

◆中村半次郎

◆有村治左衛門

◆大山綱良

◆西郷従道

◆東郷平八郎

 

とくに後の元帥海軍大将「東郷平八郎」にいたっては示現流師範の家にうまれながら、

あえて「薬丸自顕流」に弟子入りしている。



 

なぜ血気盛んな薩摩藩士たちは「薬丸自顕流」を学んだのか

 

「薬丸自顕流」極意は一撃必殺


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「薬丸自顕流」またの名を「野太刀」。

後に島津家の家臣となった、戦国期の薬丸湖雲に来歴し、実戦のための流派だ。

薬丸兼義は示現流を修行し、その特徴である腰を低く落とし剣を天に向かって突き上げる示現流の基本をふまえつつ、現代の居合にも通じる抜刀術を組み入れた。

「抜即斬」(抜刀がそのまま斬撃となるの意)と称される神速の攻撃が特徴だ。

腰を低く構え、刀を腰に差した状態からの素早くの斬り上げる。おそらく相手が剣の達人でなければ防御は不可能だ。斬り損じても、けっして攻撃はやめない。

「一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」という一撃必殺の精神を尊ぶ流派だ。

技の数は少なく、示現流を理解していればこなせる剣技が、薩摩藩士の人気を呼んだ。

ゆえに、剣術修行をまともに積むことができなかった西郷隆盛も弟子入りし、精神的極意を学んでいる。

幕末の抗争で薬丸自顕流と戦い敗れた者の中には、初太刀を受けようとして刀ごと斬られた遺体や、巻藁の如く胴体を切断された異様な遺体も多かったという。 また西南戦争の際、打ち込みを小銃で受けた兵士が小銃ごと頭蓋骨を叩き割られたと云う記録も残っている。薬丸自顕流がいかに実戦的な剣術であるかを証明するエピソードだ。

 

『薬丸兼義』の悲しみ

『薬丸兼義』悲しみ悲しみというよりは薩摩藩の悲しみだろうか、

寺田屋騒動では薩摩藩士同志が斬りあい、明治に入っても西南戦争で弟子たちが敵味方に分かれ殺し合う。

弟子たちの多くが命を落とした『薬丸兼義』の落胆ぶりは目を覆うばかりだった。と伝わる。

そして1878年、失意のうちにこの世を去った。

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