薩摩藩 幕末維新 もののふ 武士 志士列伝 勤皇 佐幕 【勤王】さ行

『西郷隆盛』なぜか周囲は剣豪ぞろい

更新日:




西郷隆盛amazon.co.jp

amazon.co.jp

 

征韓論者ではなく話し合い外交が望みだった。

そして周囲はなぜか剣豪ばかり集まってきた。

幕末維新にまつわる話に『西郷隆盛』は無くてはならない傑物ですが、残念ながら剣術修行にいそしんだ形跡は見当たりません。

しかし、彼をリスペクトし、地獄の果て(西南戦争)まで着いていった剣豪は数多く、剣をもたない“剣聖”とされてもおかしくはないでしょう。

『西郷隆盛』は征韓論者とされていますが、彼は鎖国を続ける朝鮮に話し合いで交流を図ろうと目論んでいました。ことを急ぐ明治政府が武力による朝鮮の開国を推し進めたため、朝鮮の開国という目的は同じだった『西郷隆盛』は征韓論者とされたのです。

その生涯は特にここでは記述しなくても詳しいサイトはいくらでもありますので、そちらでお調べください。

ここでは、なぜ剣豪(もののふ達)が最終的には逆賊とされてしまった『西郷隆盛』に着き従ったのかを剣術使い(もののふ)目線で分析してみます。

 

本当は剣術使いになりたかった

天保10年(1839年)、お宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩しその仲裁に入るが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。

西郷は三日間高熱に浮かされたものの一命は取り留めるが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した 。

とされていますが、1828年生まれだから11歳で、刀が握れなくなった。下級武士の出の『西郷どん』の剣術修行を諦めなければならない思い、無念いかばかりのものか。と思うに察しあまりあります。

一時、「薬丸兼義」の「薬丸自顕流」を学んでいます。

『薬丸兼義』薩摩の猛者を育てた剣

その悔しさや立身に向けてのエネルギーを全て学問に捧げ、郡方書役助をつとめ明治維新の大立役者にまで登り詰めたのはご承知の通りです。

西郷隆盛2amazon.co.jp

amazon.co.jp

友は剣豪ぞろい

しかし『西郷どん』、剣術によほど未練があったのか、大久保利通を除くとなぜか周囲は示現流の使い手、剣豪ぞろいではありませんか。

学問で身を立てた『西郷どん』ですが、プライベートでは剣豪との親交が厚く、剣への憧れ捨てきれず。といった心境だったのではないでしょうか。また学問での交友はなぜか堅苦しく、豪快な『西郷どん』の気質からして剣豪たちとの親交は心のやすらぎや冒険心を満たしてくれるものだったのかも知れません。

西郷隆盛5amazon.co.jp

amazon.co.jp

弟分は新撰組を撃退した村田新八

村田新八は幼いころから『西郷どん』を兄のように慕い、『西郷どん』らが結成した精忠組に参加。幕末期には『西郷どん』の懐刀として薩長同盟や戊辰戦争、江戸城無血開城などに奔走しました。また『西郷どん』が島津久光の怒りに触れて島流しにあった時には、西郷と共に流罪になっています。1864年に流罪から赦された『西郷どん』はわざわざ喜界島に立ち寄って村田新八と共に鹿児島へ帰っています。そんな西郷どん』の男気が示現流の使い手であった村田新八を“負けるとわかっている戦(西南戦争)”にまで導いたのではないでしょうか。

『村田新八』の解説 西郷どんと運命を共に、新撰組を退ける達人剣

 

盟友となる薩摩藩きっての剣の使い手『大山綱良』

『西郷隆盛』大久保利通らとともに精忠組に所属しました。藩主・島津久光の上洛に随行し、文久2年(1862年)の寺田屋事件では、奈良原喜八郎らとともに過激派藩士の粛清に加わり、事件の中心的役割を果たしました。

征韓論争から発展した「明治6年の政変」(1873年)で『西郷隆盛』らが新政府を辞職して鹿児島へ戻ると、私学校設立などを援助し『西郷隆盛』を助けました。




その後、『大山綱良』が県令を務める鹿児島県は新政府に租税を納めず、その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈しました。

明治10年(1877年)に鹿児島で『西郷隆盛』らが挙兵した「西南戦争」では官金を西郷軍に提供し、西郷軍の敗北後、その罪を問われて逮捕され東京へ送還、のち長崎で斬首されました。享年53歳でした。

『西郷隆盛』が流罪中、藩主の命を受け、『西郷隆盛』の親友有馬新七を斬ったことに最期まで引け目を感じ、最後の最後まで『西郷隆盛』に追従したようです。

大山格之助(綱良)  西郷隆盛とともに維新に命を懸ける薩摩藩随一の剣の使い手

 

居合の達人 幕末の“四大人斬り”に数えられる中村半次郎

『西郷どん』の盟友、中村半次郎その後の名を桐野利秋。幕末の“人斬り半次郎”が明治新政府では陸軍少将まで上り詰めています。

西南戦争で『西郷どん』とともに戦い戦死した桐野利秋は全ての西南戦争の責任を負わされ、西南戦争を引き起こした張本人との評価を受け、「無思慮な人物」、「無教養者」、「荒くれ者」などという悪名高いレッテルを貼り付けられました。
西南戦争を「桐野の戦争」と称されることがありますが、これは余りにも桐野利秋にとって酷だと思います。西南戦争は、桐野利秋一人が原因で起きた戦争でないことは歴史上の事実です。桐野利秋ただ一人が戦争を起こそうと考えたとしても、あれだけの大規模な戦争を起こせるはありません。

西南戦争では『西郷どん』の自決を見届けさらに進撃。岩崎口の一塁に籠もって政府軍と交戦、味方は相次いで銃弾に斃れ、または刺し違え、或は自刃しました。桐野利秋こと中村半次郎は塁に籠もって勇戦しなしたが、額を打ち抜かれて戦死。享年40歳でした。

中村半次郎(桐野利秋)『西郷どん』と運命を共にした薩摩きっての切れ者

 

時代の先導役『西郷どん』今も愛される維新のリーダー

『西郷どん』はみんなに頼られるリーダー的な存在だったようですね。そのためか、明治時代になり出番がなくなっていく士族(元武士)の立場に同情、共感し、西南戦争をおこしたという見方もあります。

結果としては失敗に終わったものの、周りの事を考えて筋を通す『西郷どん』は、今なお地元の鹿児島の方をはじめ人々から愛されています。

 

スポンサーリンク



-薩摩藩, 幕末維新 もののふ 武士 志士列伝 勤皇 佐幕, 【勤王】さ行
-,

Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.

Copyright© 幕末維新 もののふ(武士)列伝『勤皇』『佐幕』 , 2018 AllRights Reserved Powered by STINGER.