【流派】鏡新明智流 【勤皇】あ行

『板垣退助』 もののふ(武士)をも超越した冷血の策士

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板垣退助40歳

板垣退助 もののふ(武士)をも超越した冷血の策士

【勤皇】
愛刀:不明
鏡心明智流
1837年 土佐国高知城下中島町 生まれ
1837年(天保8年)~1919年(大正8年) 享年77歳

 

自由と民権の先駆は西洋式兵術の先駆でもあった。

明治時代に自由民権運動を牽引した印象から「政治家」というイメージがありますが、実は「軍人」として、抜きん出て人物でした。

吉田東洋の影響を受け、文武の修業に励むようになり、それが実を結び、藩内で頭角を現すようになってきます。

戊辰戦争では会津・庄内藩救解を嘆願するべく結成された、奥羽越列藩同盟に対して、

板垣退助率いる新政府軍は嘆願拒否と共に、実力を持ってこれを破砕する方針を決定しました。

板垣退助.前列中央

目的達成のためには手段を選ばぬ冷血漢と…こんな秘話が会津にはあります。

【略奪部隊】

会津戊辰戦争における官軍の残虐行為である。錦旗(きんき)、天皇の旗をかかげて会津に攻め込んだ官軍の実態は、帝の軍隊にはほど遠いものだった。分捕り部隊が存在し、競って土蔵を封印し、略奪の限りをつくした。 女性も分捕りの対象になった。

 

非道な板垣退助(いたがきたいすけ)

これは長州兵杉山素輔の証言である。

八月二九日の戦闘は大激戦だった。 杉山が会津の戦死者の懐中物を引っ張り出すと、八月二九日戦死という書きつけがあった。 なかには血判したものも入れてあった。 あとで聞くと越後(えちご)口から城中に入った三六〇人ほどが、どうしても越後口の戦線を奪わなければ敵を撃退できないと、主君松平容保(まつだいらかたもり)に申し上げたが、
「それはならぬ、よせ」
というのが主君の意向だった。 それでもやるといって血判を押した。 ふたたび主君にお目にかかることもあるまいと思ったという。 なにしろ来れば撃ち、出れば撃たれるというふうに、どちらも顔をみさえすればすぐに撃ち合っていたのだ。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.46~47)




板垣退助自身の武勇は伝わっていないが、官軍の指揮官としては徹底して冷血な軍人だったようです。

その後、新政府では西郷隆盛らと征韓論(せいかんろん)をぶち上げ、敗れ政府を去ります。が、征韓論(せいかんろん)をぶち上げたにも係わらず西南戦争には参加していません。

もののふ(武士)であれば西南戦争で西郷隆盛と共に政府軍と闘うのが道かと思われますが…。

板垣退助

板垣の自由民権運動の本質

その後、愛国公党を起こします。
軍参謀時代、会津の民がトップダウンの圧政に従わず、最終的に官軍が勝利を得たことが身に沁み、政治家となってからは力でねじ伏せても民衆はついて来ない事を戊辰戦争で経験済みの板垣退助は中央集権思想から180度転換、「自由民権運動」の旗頭となったのでした。
もののふ(武士)の道からは程遠い策士の印象ですが、最後は民の為に力を注ぐ…。

それはまるで戊辰戦争で完膚なきまでに叩き潰した会津の人達への贖罪のようでもあります。

 

【経歴】

1837年 土佐藩(とさはん 高知県)の武士の乾正成(いぬい まさなり)の子として生まれる。

 

1868年 倒幕軍(とうばくぐん)の参謀(さんぼう…戦争の指揮をする軍人)になる。
土佐藩の軍を指揮して、大きな手がらをたてる。
1871年 板垣退助が参議となる。

1873年 西郷隆盛らと征韓論(せいかんろん)に賛成し敗れ、参議を辞する。

1874年 愛国公党をおこし、民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつを明治政府に出す。

自由民権運動が広がる。

1875年 明治政府が自由民権運動に対し言論の規制を行う。

1877年 国会の開設を願う建白書 を天皇に提出。

1880年 国会期成同盟を結成する。

 

1881年 板垣退助が自由党の総理になる。

1882年 板垣退助が岐阜で刺客(しかく)におそわれ、負傷。
「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉をさけんだと言われる。

1890年 立憲自由党を結成。
1896年 第2次伊藤内閣の内務大臣。

1898年 大隈重信らと憲政党を結成し、大隈内閣の内務大臣。

1900年 政界引退。

1919年 病 死(83才)

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