【流派】北辰一刀流 【佐幕】か行

清河八郎 尊皇攘夷の魁ー世を導く策略の剣

更新日:






清河八郎 尊皇攘夷の魁ー世を導く策略の剣

清河八郎 清河八郎記念館

出典:清河八郎記念館

新撰組にして尊皇攘夷の魁、学問の人にして剣の達人、まさしく文武両道の人

【佐幕】実は尊皇攘夷  愛刀:不明

流派は北辰一刀流の免許皆伝

出羽国庄内藩出身

1830年~1963年 享年32歳 暗殺死

 

回天の魁になることを望む

出羽国庄内藩に生まれた清河八郎は学問の人でした。清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しみ、江戸に出て古学派の東条一堂に師事しました。

八郎はその才能を認められて東条塾塾頭の命を受けましたが、これを固辞しました。理由は「世の中の先頭を切って改革する『回転の先駆け』となる」ことを望んでいたからです。

そして、己の研鑽に余念なく、彼が本格的に剣術を学び始めたのは23歳になってからでした。剣をもって乱世に立ち向かう必要性を感じてのことでした。

入門したのは北辰一刀流の千葉周作が教える玄武館でした。8年間の修行の末、免許皆伝を授かるまでに上達し、その後「清河塾」を開設しました。

その当時の江戸で剣術と学問を教える事ができるのは「清河塾」のみでした。まさに文武両道、ここに集まった尊皇攘夷の志士らと倒幕の策を講じるようになったと言われています。

攘夷の思想を鮮明に

山岡鉄舟らと「虎尾の会」を結成し、横浜外国人居留地の焼き討ちなど様々な攘夷の策を計画しましたが、ことごとく失敗に終わりました。しかも市中で罵詈雑言をあびせてきた者を一刀のもとに斬り捨て、江戸から追われる立場になってしまいました。一説にはこの事件は幕府の陰謀とも言われています。

佐幕の皮を被った尊皇攘夷への行動

潜伏の日々を経て攘夷の目的を果たすために八郎が取った策略は自身が佐幕に身を置くことでした。幕府の警護「浪士組(新撰組の礎)」を組織し、尊皇攘夷を目的とした集団を結成することでした。彼の策略どおり浪士組は将軍の徳川家茂が上洛の際、その前衛として警護に当たることが決まりました。京に到着した夜、八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め、浪士組の本来の目的は将軍警護ではなく尊皇攘夷の先鋒となることだ。と述べました。

八郎は同志200名の手勢を獲得しましたが、これに反対した芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らが浪士組から袂を分かち、新撰組を結成することになりました。

幕府お抱えの剣客すらその腕前を恐れた

浪士組の同行は幕府の耳に入り八郎たち浪士組は「高橋泥舟」により江戸は呼び戻されました。ですが、その後も仲間を動かし、倒幕に向けて活動を本格化させようとしました。その過激思想、過激路線がますます鮮明化したために八郎は命を狙われる立場になっていました。江戸の戻ったその年、幕府の剣客「佐々木只三郎」「窪田泉太郎」ら六名によって討たれたのです。佐々木只三郎はその後、京都見回り組に任ぜられ、近江屋で「坂本龍馬」暗殺に加わることになります。そんな幕府髄一の剣客「佐々木只三郎」ですら八郎の腕前を恐れ、六人がかりでだまし討ちにしたと言われています。

剣術は革命成就のための手段

学問の人、清川八郎にとって剣術は回天のための手段だったのでしょう。

清河神社

出典:清河神社

いわゆる武力革命といったところでしょうか。思想こそ違え、リアルアサシン伊藤博文とも相通ずるところがあるように思えます。

【経歴】

1830年 出羽国庄内藩の生まれる

1843年 清川関所役人の畑田安右衛門に師事

1847年 江戸に出て古学派の東条一堂に師事

北辰一刀流 千葉周作道場「玄武館」に入門

1860年 倒幕・尊皇攘夷思想「虎尾の会」結成

1863年 浪士組が結成される

同年、幕府の刺客らに暗殺される 享年32歳




-【流派】北辰一刀流, 【佐幕】か行
-, , ,

Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.

Copyright© 幕末維新 もののふ(武士)列伝『勤皇』『佐幕』 , 2018 AllRights Reserved Powered by STINGER.