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川上彦斎「人斬り抜刀斎」(緋村剣心)は実在した!

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川上彦斎(川上げんさい) 「人斬り抜刀斎」(緋村剣心)は実在した!

川上彦斎出典www.printerest.com

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純粋がゆえに時代の捨て駒にされた緋村剣心のモデル

 

【尊皇】愛刀:肥後国同田貫宗廣
流派:玄斎流
肥後藩出身
1834~1872 享年37歳 斬首刑
人斬り抜刀斎は実在した。幕末四大人斬りと恐れられた純朴のインテリ剣客
勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らの師、公武合体派の「佐久間象山」を白昼の京都で攘夷の名のもとに堂々と暗殺した実行犯で、『るろうに剣心』の主人公・緋村剣心のモデルとされる“幕末四大人斬り”のひとりです。
その剣は我流ながら、抜刀の刹那に、曲げられた右脚を前方に思い切り踏み込み、左足の膝は地面につくほど後方に引く。まるでフェンシングの体を伸ばしきって突くファント(ランジ)を彷彿させます。独特の低い体勢の構えから右手一本で繰り出す逆袈裟の斬る上げはほとんど一撃で相手に致命傷をあたえたそうです。
そして佐久間象山という幕末を代表する公武合体派の超大物を斬り殺したことで、泣く子も黙る冷酷非道の“人斬り”として名を馳せることになりました。
肥後の川上彦斎、その名は悪魔の符号か
実際に新選組の局長・近藤勇(くしくも川上彦斎とは同い年)までもが避けて通った。と残るほど彼は恐れられていました。川上彦斎と親交のあった勝海舟は後年まとめられた対談集『海舟座談』のなかで、「すぐに人を斬るひどいヤツ、怖くてならなかった」と評していることからも彼は攘夷の志のもと敵対する佐幕派はもとより開国を謳う勤皇派までいささかの迷いもなく闇に葬っていたのでした。
華奢な容姿は一見女性とみまごうほど、剣心のモデルと言われる所以
冷酷無比な人斬りとしての顔を持ちながらその体躯は女性と間違えられるほど華奢でした。性格も普段は飄々として、いたって穏やかだったそうです。川上彦斎の人となりは確かに“人斬り抜刀斎”こと緋村剣心のキャラクターに相通じます。
しかし、事実は小説(漫画)より奇なり。緋村剣心に降りかかる多数の試練よりもはるかに過酷で無情な現実に川上彦斎は直面することになります。
川上彦斎を人斬りにした尊皇攘夷の信念
ここで、川上彦斎を人斬りへと駆り立てた歴史の流れに触れておきます。
川上彦斎は“幕末四大人斬り”の中村半次郎岡田以蔵、田中新兵衛とは動機の面で大きく一線を画す存在です。と言うか四人のそれぞれのバックボーンはそれぞれが大きな物語となるのです。
川上彦斎の場合、党派や組織を超えて、己が意志による単独行動でした。肥後の一大勢力“肥後勤皇党”の中心人物でもありましたが、薩摩の西郷隆盛、土佐の武市半平太とは異なり、刀を手に自ら率先して“汚れ役”になることでその理想を現実にしようとしたのです。
攘夷論者の先鋒となりインテリゆえ武力革命に身を投じる
肥後藩で発言権を持つ国学者の林桜園や儒学者の轟武兵衛らに師事し、吉田松陰と親交の深かった宮部鼎蔵に学び、藩内ではひときわ強硬な攘夷論者として川上彦斎は知られるようになりました。
1863年に朝廷を警護する藩の親兵として上京し、同年8月18日の政変では京を追われた公卿・三条実美の護衛として長州に随行、尊皇攘夷派の急先鋒として鳴らす長州勢や江戸の浪士組を結成した清河八郎ら多くの武人や志士たちと知己を得たのでした。その翌年の池田屋事件では師である宮部鼎蔵が新選組に討たれたと聞くや、仇を討つべく再び上京。
騒乱のさなかに目をつけた佐久間象山の暗殺を実行することになったのでした。佐久間象山暗殺の理由は「天皇のいる神聖な都で舶来の鞍を着せた馬に乗っていた」でした。元来から原理主義的な攘夷思想に傾倒していた川上彦斎にしてみれば時代の最先端であった佐久間象山の“西洋かぶれ”こそが諸悪の根源で許すことはできなかったのです。
佐久間象山を斬り殺した川上彦斎は動乱の京都で一目置かれる存在となり幕末史に“人斬り”としてその名を残すことになったのでした。
新たな時代に斬り捨てられた武士(もののふ)の悲しき最期
川上彦斎の碑出典blog.fc2

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維新により復権を果たした三条実美の命を守った恩人、“維新三傑”のひとり木戸孝允(桂小五郎)とも旧知の間柄と川上彦斎は勝ち馬に乗っていました。が川上彦斎は人斬りと呼ばれても信念を貫き通す純粋な国粋主義者です。明治新政府が攘夷を捨て開国へと舵を切るなか、かたくなに攘夷を唱え続ける川上彦斎は時代の流れから浮いた存在になってしまったのでした。
自身のすべてを懸け、人斬りにまでその身を落とし、尽くした“維新”が、「廃刀」そして近代化の名の下「西洋の模倣」となってしまった時代の奔流に飲み込まれた川上彦斎は自らの存在意義を見失うのでした。
川上彦斎は三条実美や木戸孝允たちの攘夷から開国への変節を激しく糾弾しました。激怒する川上彦斎に怯える三条実美は「川上彦斎が生きているうちは枕を高くして眠れない」と周囲に語っていたようです。
剣の武勇のみならず知力にも秀でたインテリジェンスだったがゆえに明治新政府にとって川上彦斎は危険分子とのレッテルを貼られ、身に覚えのない濡れ衣をかけられ投獄され、1872年東京の日本橋・小伝馬町で斬首刑に処されたのでした。
まさに使い捨てのコマ、時代に取り残された武士(もののふ)には悲しき宿命だけが待っていたのでした。
もし、川上彦斎が思想を超え、剣だけに生きていたのであれば、たとえ“人斬り抜刀斎”であっても「るろうに剣心」の最終回のようにハッピーエンドな人生を迎えることができたのかも知れません。
【経歴】
1834年 熊本藩士の次男坊として誕生
1849年 肥後藩主邸の茶坊主となる
    皇学、兵法を学び尊皇攘夷思想を抱く 15歳
1862年 上洛、久坂玄瑞 桂小五郎らと親交 28歳
1864年 佐久間象山殺害、長州勢として禁門の変に参加 30歳
ここからがさらにマジで波乱万丈、本サイトでは主旨が異なるので残念ながら割愛しますが。
1871年 捕縛、江戸送りに 37歳
1872年 斬首 38歳




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