薩摩藩 幕末四大人斬り 【流派】示現流 【勤皇】な行

中村半次郎(桐野利秋)『西郷どん』と運命を共にした薩摩きっての切れ者

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中村半次郎(桐野利秋)『西郷どん』と運命を共にした薩摩きっての切れ者

中村半次郎 桐野利秋

【勤皇】
愛刀:和泉守兼定
薬丸自顕流
1838年 薩摩藩出身
1838年~1877年 享年38歳

神業の域 示現流居合いの達人

 幕末の“四大人斬り”に数えられる中村半次郎は紛れもなく剛の人でした。
180センチ近かった言う恵まれた体躯から繰り出される
実践最強との呼び声も高い示現流をベースとした自己流の「抜き打ち」はまさに 必殺剣

その圧倒的なスキルは「一瞬も立ち止まることなくすれ違いざまに切り伏せた」
「雨だれが地面に落ちるまで三度抜刀できた」
などといった超人的な逸話とともに後世に語り継がれています。

最も彼が卓越した居合いの達人であった事は確かで
鯉口を手首で回すようにして切り、
切っ先を下に向けたまま前方へと放つ示現流独特の抜刀術の威力はもはや神業の域、
次の刹那には得を当てた右肘の反動を利用して刀を押し込まれるため
相手は刀を抜く間もなく倒されてしまったそうです。
 
直属の上司で盟友でもある西郷隆盛の命を受け
彼自身がこうした暗殺のミッションを請け負っていた可能性は極めて高いものの
いつどこで誰を殺めたかまるで一切分かっておらず
一説にはに60人とも100人とも言われる斬った人数も伝説の域を出ていません。
世にいう「人斬り半次郎」の異名も実際のところは後世の創作によって流布したもの
というのが実情でしょう。


剣の達人でありながら苦学の人

また前述の創作の影響からか中村半次郎自身は
粗野な荒くれ者のイメージで語られることが多く
中には本人が謙遜して文盲と称したのを額面通り受け取って
無学な人物として描いているものまであります。
が、当然ながら学の無い人物が政府の軍幹部にまでなれるほど幕末明治の世も甘くは無い。
ほとんど農民に近い郷士の出身であるが故、
本来なら武士が修めるべき四書五経を始めとした漢文の素養がなかったのは間違いありませんが、その異能ぶりは西郷隆盛をして「学問への造詣がもしあれば中村半次郎の右に出るものはいない」と評されるほどでした。
親交のあった勝海舟もまたその談話をまとめた氷川清話の中で
同じく西郷隆盛の側近だった村田新八と並び中村半次郎を俊才と書き残しています。






サツマイモを手土産に西郷隆盛に上洛を直談判 

実態はほぼ農民でしかなかった名ばかりの郷士中村吉右衛門の三男坊として生まれた
中村半次郎は幼少期から極貧生活の中でひたすら剣の腕を磨き、
薩摩藩伝統の示現流をほぼ独学で会得。
持ち前のハングリー精神を糧に出世のチャンスを虎視眈々と伺っていたとそうです。
そして1862年に当主忠義の父にして実質的な最高権力者である
島津久光が上洛すると知るやサツマイモ3本を手土産に、
知己を得た西郷隆盛に同行を直談判しました。
中村半次郎の熱すぎる思いを汲み取った西郷隆盛や中村半次郎の忠誠心を買っていた
家老の小松帯刀の配慮で久光一行に加わり晴れて京都へ登る事になりました。

なお半次郎自身は旧知の知人も多くいたことから兼ねて尊攘流行の思想を持ってはいたものの、
結果的に藩内の勢力を2分する同士討ちとなった寺田屋事件では
事態を生館事件に関わった友人とはあえて距離を取るなど
情勢を見極める冷静沈着さを見せています。

また京都での半次郎は朝廷の警護と言う表向きの任務の傍ら
権謀術数にたける西郷隆盛の手足となって密偵のような役割を担いました。
当時は対立関係にあった長州藩士達とも積極的に交流して
武力による倒幕を標榜するようになりました。
中村半次郎は後の薩長同盟と至る地ならし役として水面下で暗躍。
その働きを高く評価されることになるのでした。 


戊辰戦争では武士の鏡のうような振る舞いを

ちなみに戊辰戦争における最激戦の時となった会津の開城の際には
当時の官軍の大総督府直属の軍艦となった中村半次郎が、
官軍側の代表として城の引き渡しに立ち会っています。
藩主松平嘉保はこの時男泣きになりたいとも言われています。
中村半次郎の会津に対する紳士的な対応に痛く感じり、
後にその礼として所有の宝刀を送ったとそうです。

中村半次郎 西南戦争
武士としての誇りと生きざまが中村半次郎の命運を翻弄する

剣の腕前のみならず軍略家としての才能を遺憾なく発揮した中村半次郎は
戊辰戦争での功績を認められて新に敷かれた軍制のもとで陸軍少々へと出世します。
維新を契機に生桐野利秋と名前も改めました。
だが明治6年の政変いわいる生還論争によって西郷隆盛が下野すると
これに追従する格好で故郷の鹿児島へ帰還しました。
同様に下野した村田新八や篠原国幹と共に最後にして最大の氏族反乱
「西南戦争」へと身を投じていくことになります。

武家社会の終焉と同時に己の人生にもまく引き 

西郷隆盛や中村半次郎ら幾多の修羅場をくぐり抜けてきた強者の才覚を持ってすれば、
いくら武勇の誉高き薩摩隼人が結集しようと
そこに勝機などないことは百も承知だったことでしょう。
それでもあえて死地に向かうような選択をしたのは

武士でありながら農民同然の暮らしを余儀なくされていた
中村半次郎を引き上げてくれた
西郷隆盛への恩義と剣の道に生きたい
剣客としての衿持があったからに他ありません。
 
この戦争そのものは不可抗力から偶発的に起きてしまった
アクシデントのようなものでしたが、
戊辰戦争で実弟をなくして以降
どこか死に場所を探しているかのようなフシのあった
西郷隆盛にとっては勝てずとも納得がいく最後の大舞台でした。
それは西郷隆盛に殉じた中村半次郎にとっても同様だったことのでしょう。
かくして西郷隆盛の自決を見届けて中村半次郎はその後も奮戦、
最後は敵の銃弾に期待を撃ち抜かれて戦死したそうです。

村田新八 西郷どんと運命を共にした新撰組をも退ける達人剣

もし、中村半次郎が下野した西郷隆盛と袂を分かっていれば、
おそらく彼は明治政府においても重要な地位を占めることになっていたでしょう。
しかし中村半次郎は防御など不要と言わんばかりの
実践に特化した超アグレッシブな殺人剣である示現流の使い手です。
攻めの一手で自らの道を切り開いていた彼には
その魂と言うべき刀を捨ててまで守りたいものなど他になかったに違いありません。




							

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