【流派】神道無念流

『神道無念流』幕末維新「武士・志士」どもが学んだ剣術【流派】

更新日:

幕末維新「武士・志士」どもが学んだ剣術【流派】

『神道無念流』

神道無念流の錬兵館は幕末期には江戸の三大道場のひとつに数えられました。
開祖・福井兵右衛門はあまり日の目を見ることなく、1764年に免許皆伝を受けた二代目・戸賀崎熊太郎の代に世間に知られるようになりました。
剣技の特徴は竹刀稽古であっても軽く打つ「略打」は許されず、相手の攻撃を斜め前でかわし、一撃で討って取る「真を打つ」渾身の一撃を一本と認めました。
轟然な剣技のために防具などは牛革で頑丈に作られていました。居合流に多い横一文字の抜きつけはあまり無く、肘を狙う逆袈裟の抜きつけが多用されました。
錬兵館を創設した斎藤弥九郎は元来が学者志望で、剣客になっても砲術、土木、建築、儒学などをも究めていました。そんな斎藤弥九郎の幅広い叡智が、『神道無念流』の無駄な争いは避ける構えにつながりました。
神道無念流縁もゆかりも無かった長州藩士がこぞって錬兵館に留学したきっかけは1847年斎藤弥九郎の長男・新太郎が剣術修行に諸国を旅した際、長州藩の道場に立ち寄ったことがあります。
その時、並み居る藩士を叩きのめしまし、「道場の外側だけ立派で中身が伴なわない!」これを聞いた藩士らは激怒しましたが、新太郎は長州から旅だった後でした。
この話を聞いた長州藩江戸藩邸詰めの長州藩士たちが錬兵館に抗議に詰めかけました。武者修行中の新太郎に代わって出たのが三男の歓之助でした。歓之助は素手で長州藩士の相手をし、藩士らを叩きのめしました。
結局、その強さに感服した長州藩は藩士を錬兵館に留学させるようになりました。桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文などその後、維新を動かした錚々たる人物が「錬兵館」から巣立っていきました。
【『神道無念流』の歴史 】

1702年 福井兵右衛門、下野国に生まれる   赤穂浪士・江戸本所松坂町の吉良上野介邸に討ち入り

1764年 戸賀崎熊太郎に免許皆伝を授かる   江戸大火が発生

1798年 斎藤弥九郎、越中国に生まれる    近藤重蔵がエトロフ島に「大日本恵土呂府」の標柱を立てる

1812年 斎藤弥九郎、江戸「撃剣館」に入門   ナポレオンがロシアに遠征

1826年 斎藤弥九郎、九段坂下に錬兵館を開く   シーボルトが江戸に到着

1871年 斎藤弥九郎 死去   明治4年 廃藩置県
【『神道無念流』の使い手(幕末維新)】

桂小五郎(長州藩) 神道無念流免許皆伝

      桂小五郎 新撰組も手が出ぬ剣の達人

高杉晋作(長州藩)神道無念流 柳生新陰流免許皆伝

      高杉晋作 柳生新陰流免許皆伝の軍事の天才

伊藤博文(長州藩) 神道無念流  

      伊藤博文 暗殺や焼き討ちを画策実行、武力革命家

 

 

-【流派】神道無念流
-, , , , ,

Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.

Copyright© 幕末維新 もののふ(武士)列伝『勤皇』『佐幕』 , 2018 AllRights Reserved Powered by STINGER.