【流派】鏡新明智流 幕末維新「武士・志士」どもが学んだ剣術【流派】

『鏡新明智流』幕末維新「武士・志士」どもが学んだ剣術【流派】

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幕末維新「武士・志士」どもが学んだ剣術【流派】
町井勲先生2
『鏡新明智流』

1770年代杉田玄白・前野良沢らによる解体新書が出版される前、『鏡新明智流』郡山藩士「桃井八郎左衛門直由」によって創始されました。「桃井八郎左衛門直由」は剣術修行のために郡山藩を脱藩し修行の旅に出ました。
諸国をさすらい、柳生流、戸田流、堀内流、一刀流などを習得しました。戸田抜刀術の形「鏡心」によって剣を開眼したことから「鏡心明智流」とされ、後に『鏡新明智流』となりました。
江戸に出た直由は日本橋茅場町に道場を開きました。これが『鏡新明智流』士学館道場のはじまりになりました。
時を経て二代目の直一は士学館道場を「あさり海岸(現中央区新富あたり)」に移転しました。三代目の直雄のころ道場は衰退しますが、沼津藩士・田中重郎右衛門豊秋の次男、田中勘助をその才能を見込み養子に迎え入れました。
1849年25歳で免許皆伝を授かった勘助は四代目「桃井春蔵直正」を襲名しました。
鏡新明智流の極意は一刀流と新陰流の折衷のような形式でした。中心突破と流麗な体さばきで、転身しつつあいてを崩し、必殺の一撃を放つ形でした。
鏡新明智流はその構えが美しく、さらに「威あって猛からず」と称され直正は徳川家の幕臣に取り立てられました。
ある日、直正と高弟が稽古の帰りに新徴組と遭遇、直正一行が道を譲るよう呼びかけたために小競り合いに発展、激高した新徴組隊士たちが抜刀し斬り合いになりかけたところ直正が「私は公儀与力、講武所教授方・桃井春蔵直正と申すも者、ここにいるのは士学館の弟子である。ごお望みならばお相手も辞さない。」
新徴組隊士たちは直正の気迫に飲まれ平身低頭して立ち去りました。
つま先が見えないほどの長い袴を身に着け、凜をした立ち振る舞いで賞賛された直正は幕臣連中から「その姿勢、位は他に無し」と呼ばれ「位の桃井」と称され士学館は江戸三大道場の一つに数えられ絶頂期を迎えました。



【『鏡新明智流』の歴史 】
1770年 桃井八郎左衛門直由によって鏡新明智流が創始  ジェームズ・クック、オーストラリア東岸に到達し、イギリス領と宣言
1775年 桃井八郎左衛門直由が江戸茅場町に士学館を開設  アメリカ独立戦争
1849年 桃井春蔵直正四代目を襲名、士学館を継承  葛飾北斎が死去
1862年 桃井春蔵直正、江戸幕府幕臣となる 尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩)を襲撃「坂下門外の変」
1867年 桃井春蔵直正、徳川慶喜上洛の警護役で随行  坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺される(近江屋事件)
1885年 桃井春蔵直正死去   伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任

【『鏡新明智流』の使い手(幕末維新)】
岡田以蔵(土佐藩)幕末最恐の暗殺剣
     岡田以蔵のページ
武市半平太(土佐藩)土佐勤皇党を率いた剣豪
     武市半平太のページ
中岡慎太郎(土佐藩)龍馬とともに日本の夜明けを目指した男

 

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