【勤皇】た行

武市半平太(武市瑞山)中岡慎太郎、人斬り以蔵を従えた剣豪

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武市半平太(武市瑞山)中岡慎太郎、人斬り以蔵を従えた剣豪

武市半平太

【勤皇】
愛刀:南海太朗朝尊
鏡心明智流 一刀流 免許皆伝
1829年 土佐藩出身
1829年~1865年 享年37歳

武市半平太の剣豪としての腕前は相当なもので、坂本龍馬の盟友中岡慎太郎や幕末の京都の町を恐怖におののかせた人斬り以蔵こと岡田以蔵ら名だたる猛者をしたがえた鏡心明智流の達人でした。

とくに人斬り以蔵こと岡田以蔵が心酔したのは武市半平太の人柄や思想以前に剣の腕前に魅せられたからではないでしょうか。

土佐藩の郷士の家に生まれた武市半平太は12歳から一刀流を学びその後、一刀流の麻田勘七に師事し免許皆伝を受けました。

1855年には自らの道場を構え120名を超える門弟が集まり、その中に中岡慎太郎や岡田以蔵らの姿がありました。
ですが武市半平太は道場主で慢心することなく剣の道を突きつめようと中岡慎太郎や岡田以蔵を伴って江戸の鏡心明智流の桃井春蔵に師事、桃井の士学館で修行に励みました。
他流試合には積極的におもむき、その腕前を遺憾なく発揮し塾頭にまで上りつめました。
江戸では尊王攘夷派の桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作らと交流しその思想をもって1857年に帰藩しました。
1861年には坂本龍馬、吉村虎太朗、中岡慎太郎らの同士を集め『土佐勤皇党』を結成し盟主になりました。

翌年開国・公武合体派で土佐藩参政の吉田東洋の暗殺を指令し土佐藩を尊皇攘夷へと転換させました。さらに京では『天誅』と称し佐幕派や政敵の暗殺を指示しました。

暗殺者『天誅』の実行犯として恐れられたのは岡田以蔵らでしたが、これは武市半平太の誠意手腕によるものでした。
武市半平太獄中図
武市半平太の最期は主君に対する不敬の罪状で土佐藩主・山内容堂が下した切腹の命でした。武市半平太は三文字割腹での切腹を用いました。
これは切腹の際、腹を三の字を書くように三回真横に切るもので、強靭な精神力と覚悟を持った者でしか成しえないものでした。最後まで剣豪魂を発揮し剣豪をつらぬいた武市半平太らしい死に方でした。

【経歴】
1829年 土佐藩郷士の家に生まれる
1855年 鏡心明智流道場を開く 26歳
1856年 剣術修行のため江戸へ鏡心明智流士学館に入門 27歳
1861年 坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太朗らと土佐勤皇党を結成 32歳
1865年 土佐藩の土佐勤皇党への弾圧により投獄、切腹により死去 36歳 

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