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桂小五郎(木戸孝允)新選組も手出しできぬ剣の達人

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桂小五郎 新選組も手出しできぬ剣の達人

【勤皇】愛刀:備前長船清光

柳生新陰流、神道無念流免許皆伝

1833~1877年 病死 享年43歳

桂小五郎、あらため木戸孝允の愛刀。備前長船清光(びぜんおさふねきよみつ)

桂小五郎、あらため木戸孝允の愛刀。備前長船清光(びぜんおさふねきよみつ)

桂小五郎は長州藩藩医の家に生まれました。7歳の時桂家に養子になり、13歳前後から吉田松陰の松下村塾に通うかたわら長州藩剣術師範の柳生新陰流・内藤作兵衛道場に入門し剣の道を志しました。神道無念流に開祖・斎藤弥九郎の子、斎藤新太郎と出会い、新太郎の剣技に感服した桂小五郎は斎藤新太郎とともに江戸に剣術修行に出向きました。江戸では斎藤弥九郎の道場「練兵館」で並々ならぬ精進を続け、たった1年ほどで免許皆伝を受け塾頭にまで上り詰めました。5年間の塾頭時代は他流試合で一度も負けたこと無く。正真正銘の剣豪でした。

ではなぜ「逃げの小五郎」と呼ばれるようになったのでしょうか。池田屋事件の際、仲間を置いて逃げだした。とか、会津藩士に捕縛された時も厠に行きたい。と言い、すきを見て逃げた。と言われ紛争や戦いの気配を感じると扮装までして身を隠したと言われています。

いざ戦えば、静謐な気迫の上段の構えで相手を威圧、かの新選組局長の近藤勇ですら「手も足も出なかったのは桂小五郎」と言わしめたほどの実力です。もともと桂小五郎は剣豪として生きるのではなく、政治の道を志し西洋砲術や英語などを学んでいました。かつてやって来る時代の大局を見据えて、自身の役どころをわきま、大志を貫徹するために“逃げの小五郎”などと陰口を言われても、一切関するところではなかったのでしょう。

明治新政府では総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となり名前も桂小五郎から木戸孝允に変え…活躍は日本史の教科書で知るところです。

そんな剣の達人も襲ってくる病には勝てず、おりしも西郷隆盛が起こした西南戦争の折、病状は悪化し「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を最後にこの世を去りました。

【経歴】

1833年 長州藩医 和田昌景の長男として生まれる

1846年 柳生新陰流 内藤作兵衛の道場に入門 13歳

1849年 吉田松陰の松下村塾に学ぶ 16歳

1852年 江戸の神道無念流・練兵館に入門 19歳

1863年 藩命により京都に上り攘夷活動 30歳

1866年 薩長同盟結成、長州代表として辣腕をふるう 33歳

1877年 西南戦争のさなか病死 43歳

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