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藤堂平助 藤堂家の落胤にして新選組の先頭を駆け抜けた剣豪

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藤堂平助 藤堂家の落胤にして新選組の先頭を駆け抜けた剣豪

「戒光寺御陵衛士墓所」正面左から毛内監物・伊東甲子太郎・藤堂平助・服部三郎兵衛の墓碑。(石香炉・手水場は明治2年の墓碑建設時に毛内監物の出身・弘前藩から供えられたもの。)

【佐幕】愛刀:上総介兼重
1844年 北辰一刀流
武蔵国江戸生まれ
1844年~1867年 享年23歳
 
新選組八番組組長として常に先陣を駆け抜けたことで魁先生と呼ばれていた藤堂平助は伊勢津藩主の落胤とも、伊勢久居藩家老の子息との説もあります。
藤堂平助の愛刀は上総介兼重、藤堂家お抱えの刀工が鍛え上げた名刀で素浪人が持てる安価な刀ではありませんでした。彼の出自を語る資料は新選組唯一に生き残り永倉新八の証言のみですが、上総介兼重の刀を佩刀していることで、伊勢津藩ゆかりでしかも相当な位の人物だったことは間違いないでしょう。
北辰一刀流開祖の千葉周作の玄武館門弟であり伊藤甲子太郎の伊藤道場の寄弟子でもあったといわれ、いずれにせよ北辰一刀流の達人だったことは間違いありません。近藤勇の道場・試衛館に出入りするようになり、新選組結成時から最年少ながら幹部に任じられました。池田屋事件では新選組の先頭に先駆け維新の志士らをその技で次々と倒しました。この果敢な戦いぶりにより江戸幕府から報奨金が下賜されましたが兵頭平助は固辞し受け取ろうとはしませんでした。これは土方歳三軍の参戦以前に池田屋で決着を付け損ねた自身への戒めだったのでしょうか。
後に思想の違いから伊藤甲子太郎らとを御陵衛士 (一和同心「日本国が心をひとつにして和する」・国内皆兵・大開国大強国を基本とし、公議による朝廷中心の政体づくりを目指す独自の政治活動)を結成、新選組を離脱し1867年におきた油小路事件で新選組に抹殺されてしまいました。
新選組入隊間もない未熟大使に斬られた藤堂平助の意志は同志に殉じ惨死を選んだのでしょうか。
 
【経歴】
1844年 武蔵国江戸で誕生( 旗本五千石の藤堂家出身の説が有力)
1860年 伊藤甲子太郎の寄弟子になる
1863年 近藤勇率いる壬生浪士組に参加
1864年 池田屋事件で戦果を上げる
1867年 伊藤甲子太郎らと御陵衛士を結成、新選組離脱
同年11月 油小路事件で斬死

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